2026年9月7日(月)
初めての陸稲栽培。ここ最近は穂が少しずつ出てきている。稲が枯れるまでにこの穂がどれだけのお米になるのかはわからないけど、せめて来年の種籾分くらいは確保できたらと毎日見るたびに願っている。やっぱり主食を自分で作れたら最高だし最強だ。目標はお米自給率100%の暮らし。
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2026年9月6日(日)
アメリカ産ジャガイモの輸入解禁の話。寄生虫のジャガイモシロシストセンチュウなどが一度畑に入ってしまうと根絶するのが難しく、その畑ではもうジャガイモが作れなくなってしまうリスクがあるため、生産者からはもちろん世論からも強い反対の声が上がっている。だが、今の政府はそんな声には全く耳を傾ける気など更々なく、このまま輸入解禁を強行し、既成事実を作って無理矢理納得させるつもりだろう。
自分ももちろん輸入解禁には反対だ。もしシストセンチュウが入ってきたら、ジャガイモだけでなくナス科の作物全般(ナス、トマト、ピーマン、唐辛子など)にも悪影響が出てしまい、そんなことになったら国内農業が大打撃を受けるし、ひょっとするとわれわれの家庭菜園でさえも栽培の制限が掛けられるかもしれないからだ。そうして畑がダメになって栽培できなくなった作物は、全て輸入品頼みになりかねない。ただでさえ食料自給率が低く弱々しいこの国が、ますます弱くなってしまう。
しかし、反対の声を上げていくのは大事だと思うが、これは今の時代ゆえに起きる問題だということを理解する必要があると思う。人間も所詮はただの生き物。本来は食べていくために生きているのに、ほとんどの人間は自分で食べ物を作ること、得ることが出来なくなり、食べ物はお金を出して買うことでしか得られず、お金の力を借りなければ腹を満たせなくなってしまった。昔は農家でない人でも庭先で野菜を作るぐらいはしていた。土に触れて、草木を育て、そこから実りを得ることが生活の中にあり、「農」はそんな遠い存在のものではなかった。やがて資本主義が蔓延ってしまい、カネにならない農業から人々は離れ、今となってはごく一部の高齢化した生産者たちで大多数の消費者の腹を満たしていくという、非常にいびつで脆弱な構造に辿り着いてしまった。
反対の声を上げている人の中には「もし輸入解禁になっても私は国産のジャガイモを買い続けます!」ということを宣言している人も少なくないが、どこまでも自分は消費者という立場を変えず、安全な場所からお金さえ出していればそれが免罪符になるかのような甘ったるい発想では、結局はお金にも権力にも支配されるだけで、やがて生産者がいなくなったらそこで終わりだと思う。
だからそこまで輸入反対の声を上げるなら、先ず自分自身が畑でジャガイモを作ることで意思表示をしたらいいと思う。ジャガイモが無理ならトマトでも豆でも何でもいいから、何か一品でも作物を作ったらいい。本当に守らなければいけないのは農業ではなく「農」そのものだ。お金の力に支配されず食べ物を得られる人間が何百万人、何千万人と増えていけば政府にとってはこの上ない脅威になる。それこそがこの上なく強い反対の意思表示になるのではないか。
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2026年9月5日(土)
J子が4年前から使っているタブレット端末のバッテリーの充電がすぐに切れるようになり、もう使い物にならなくなりつつある。たまに動画を見る程度で使っていたけど、たった4年でダメになるとはね。
一昔前のガラケーなら携帯ショップでバッテリー交換が出来て長く持たせることが出来た。今のスマホやタブレットはバッテリー交換が素人には出来ない仕組みになっているし、仮に専門業者にバッテリー交換をやってもらうにしても高くついて新品を買い直した方が安上がりで済むため、よほど思い入れのある端末でも無い限りバッテリー交換なんて誰もしないだろう。
こういう使い捨てを「時代だから仕方がない」と言ってしまえば、果たしてそれが免罪符になるのだろうか。われわれはこんな時代を当たり前のように生きているけど、いつの日かとんでもない代償を負わなければならなくなると思う。
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2026年9月4日(金)
久々にゴジュウカラが庭にやってきた。ぷっくりとした体で、ニセアカシアの木に立てかけてある梯子を逆さ向きで降りてくる姿は相変わらずかわいい。カラ類の鳥(シジュウカラ、ゴジュウカラ、ハシブトガラ、ヤマガラなど)は冬になると異種同士で混群を作って毎日庭にたくさんやってくるが、夏の間はほとんど姿を見せない。だから帰ってきてくれると嬉しいし、季節の変わり目を感じる。
カラ類の混群をずっと見ているとゴジュウカラは少し意地悪な性格なのが分かる。他の鳥が餌を食べていると後ろからど突いてその場所からどかせることがよくある。あんなに小さくても真冬の-20℃の環境を必死に生き抜くのだから、われわれなんかよりもずっと強くて逞しい。
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2026年9月3日(木)
近所の小さな商店に行くと、大体ホッケとかき揚げを買う。ホッケはあのお店が仕入れてきて干したものなので、いつも肉厚で美味しい。かき揚げはいつも揚げたてで、買ったらその日は蕎麦だ。蕎麦となったら畑からネギを2本抜いてくる。今日も美味しいものが食べられて幸せだ。
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2026年9月2日(水)
うちのお店は毎週水・木・金が定休日で、その3日間は敷地内の入り口の所にコーンを立てて「定休日」と書いたプレートを掲げているのだが、ここまでやっても横から入ってきちゃう人が時々いる。普通、道の真ん中にこういうのが置いてあったら「入ってこないで!」というメッセージが読み取れると思うのだが。
特にうちの場合は自宅を兼ねた店舗なので、休みの日に入ってこられるのは本当に勘弁してほしいのです。休みの日は自分たちにとってプライベートな時間だし、ラフな格好でウロウロしたいのでね。何というか、役者の楽屋にまで観客がズケズケ入っていくのはご法度でしょう。それと同じことなんですよ。まあ、ここでこんなこと書いても、実際に入ってきちゃう人には伝わらないのだろうけど…。
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2026年9月1日(火)
うちで販売している珈琲豆の種類が少ないのは、単純に小さなお店だからというだけではない。たった一種類の生豆でも浅煎りにしたり、深煎りにしたりと、焙煎度合いを変えれば全く違う味わいの珈琲になる。そういう性質があるものだと伝えたくて、今の販売形式を選んだ。それに、種類が少なければその分焙煎への集中力と熟練度が高まり、いつも安定したものが出せるようになる。さらに、種類が少なければ小さな店でも生豆の回転率が良くなり、在庫を抱えなくて済むし、生豆はいつも新鮮なものが使えて、焙煎した豆もいつでも煎りたての品質の高いものがお届けできる。そういうメリットを最大限生かした豆屋になろうと思ったからだ。
大量消費に慣れた世の中は何を買うにしても、常により取り見取りの状態でなければならないと勘違いさせられている。珈琲もより取り見取りであれもこれも取り揃えているのはいいけど、その分どれもこれもコスパ重視で浅く焼かれた酸っぱいものばかりになり、製造から流通まで何か月も掛かって、品質は最悪だ。特に日本の場合は戦後の高度成長とともにアメリカ型の量産された粗悪品によって珈琲文化が形成されたため、人々は不味い珈琲に舌が慣らされている。
自家焙煎の珈琲屋は本来、そうした粗悪品珈琲文化に対して「NO!」と言うための存在であるべきものだと思っている。生豆は正常に加熱すれば必ず美味しくなる。当たり前のことを当たり前にやるだけだ。
こうして言語化すると何だか気難しいラーメン屋の頑固親父みたいだな。それでも本気でそう思っているんだからしょうがない。明日も早朝からまた焙煎がんばります。
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